『「まさか」の人生』(新潮社)から。
1989年11月13日、島根医科大学(現・島根大学医学部)の助教授だった永末直文さん(当時47歳)は、1歳の男児に切り取った父親の肝臓の一部を移植する手術に臨んだ。日本初の生体肝移植。世界でも4例目だった。
「生体肝移植をやりたい」。 皆が押し黙り、重い空気が流れた。 学内の倫理委員会の承認は得ていなかった。第三者の立場から医療行為の妥当性を審査する倫理委は、一定の時間を要する。 「時間がない。私がすべて責任を取る」と押し切った。 若い医師は言った。「先生は黙っていても教授になれます。失敗すれば、すべてを失いますよ」
日本初の手術は何をもたらしたのか。 生命の危機にあった患者を救う緊急の手術だったとはいえ、倫理委の承認を得ていないことが問題視された。健康な人の体にメスを入れていいのか、子供への臓器提供を強要することにつながらないか。学内外で批判や反発が巻き起こった。 「功を焦った」「早く教授になりたかっただけだろう」。心ない声も耳にした。
手術から285日目の8月24日、裕弥ちゃんは息を引き取った。 1995年に島根医科大の教授となり、2003年の島根大との合併後は医学部長にも就いたが、生体肝移植を執刀する機会は2度と訪れなかった。
日本移植学会の江川裕人理事長は「うまくいかなかったことも、すべてを背負う気持ちがなければ1例目はできない。準備中だった他の病院の背中を押し、手術を広めるきっかけになった」と評価する。
移植は本来、倫理的にも技術的にも脳死からの方が望ましいとされる。97年に臓器移植法が成立したが、脳死移植が劇的には増えない一方、生体肝移植は2021年末に累計で1万件を超えた。
裕弥ちゃんの手術から30年となった2019年11月、島根大医学部にそう刻まれた記念碑が設置された。永末さんは除幕式でこう述べた。 「小さい地方の医科大から肝移植を世界に広められ、感無量だ」
「孤高のメス」の題材になった実話であるが、先端を走る人に対する風当たりは強い。特に日本ではリスクを冒さないように生きることが良しとされる。学会や会社、マスコミまでが足を引っ張る。でも物事には最初の一人は必ず存在する。我々のように物しか扱わない人はまだいい。医学は人の生死に直結している。心臓移植の和田医師は失敗とみなされマスコミから非難された。
人生は、結局死ぬ間際に自分の人生を鑑みて、「満足」なら良い、「後悔」なら悪しである。この仮想世界でも自分のやりたいことをやらずに仮住まいして生きることの退屈さは死に値する。孤高とは、組織や家庭、社会の拘束を振り払い、自分の信念に基づき行動することだ。そういう人が新しい道を切り開くのだ。自分の評価は最後に死に面した時の自分の判断のみで行えばいいと思うから、そんな生き方ができるのだ。