一橋大学名誉教授の伊丹敬之氏が提唱する「オーバーエクステンション戦略」
「シンテックの事業が始まった頃、信越化学はさまざまな国に技術輸出をしていましたが、海外で生産活動を行っていたのは中米ニカラグアのみでした。技術輸出で成り立っていた信越化学がアメリカという巨大市場で「生産事業の経営そのもの」を行うわけですから、極めて難易度の高い挑戦だったといえます。 このとき、後に信越化学の社長・会長となる金川千尋氏は海外事業本部長でしたが、ロビンテックとの合弁会社設立を独断で決め、副社長だった小田切新太郎氏に「事後承諾してもらった」と自著で語っています。つまり、自らの判断で挑戦を決意し、トップの了解を事後的に得ていたのです。こうしたアプローチを、著書では「オーバーエクステンションの半公認密輸入」と表現しています。 ところが、後に合弁相手のロビンテックが資金難に陥り、1975年にはシンテックの株式持分50%を信越化学が買い取り完全子会社化するように要請してきました。買取金額は信越化学とロビンテックとの間で大きな差があり、交渉は難航したそうです。信越化学の役員会では「完全子会社化は危険すぎる」と反対する声が大半でした。
──反対の声が上がる中で、どのように買収を進めたのでしょうか。 伊丹 金川氏は全額出資による完全子会社化を主張し、当時社長になっていた小田切氏を説得しました。そして、1976年には1000万ドルでの50%持分買い取りに成功します。これは当時の為替換算で約30億円となり、当時の信越化学の年間利益の2.4倍にもなりました。 その後もシンテックへの積極投資を続け、2020年には同社は世界最大の塩ビメーカーに成長しています。 もともと、信越化学は技術輸出を数多く行っていたため、技術の能力基盤には申し分ありませんでした。一連の挑戦を成功に導いたのは、アメリカという巨大市場で現地の従業員をマネジメントすることで組織の能力基盤を拡張した、同社の経営力にあります。 オーバーエクステンションが「実力より背伸びをする戦略」である以上、周囲の反発を完全に抑えることは不可能です。どのような組織でも「それは危険だ」と反対意見を述べる人が必ず出てきます。しかし、挑戦するべき論理の筋が通っているならば、トップがうまく立ち回り、反発の声を抑える役割を担うことが重要です。 今振り返れば、高度経済成長期には無理や無茶をしていた企業がたくさんありました。しかし、そうした挑戦があったからこそ大きく成長できたのです。今の時代だからこそ、経営者には「無理を仕掛けること」が求められているのではないでしょうか。
金川氏が小田切氏の了解を取ってやったとなっているが、真実は違うだろう。金川氏の後ろには小坂徳三郎がいたからだと思う。金川氏は極東物産(今の三井物産)にいて、小坂徳三郎が将来の社長にと連れてきた人物だ。小坂徳三郎は創業者の小坂順三の分家であるが、信越化学を大きくしたのは小坂徳三郎だ。政治家になっても影響力は絶大だった。金川氏が小坂徳三郎に相談しないわけはない。
信越化学は、政治的な会社だった。派閥があり裏で動く人が多かった。人事はそういうことで動いていた。金川氏が社長になってからは塩ビ閥が権力を握りオーナー経営のようになった。歯向かうものは左遷された。まあ信越化学が大きくなったのもこのオーナー経営のようになったからだと思うが、イエスマンの取り巻きしか残らなくなったのはどういうものだろうか?
補足ではあるが、金川氏が社長になる前は労働組合と人事が組んでいた。私は労組ににらまれており、人事部長は私を転勤させようとした。しかし金川氏が社長になってから私の転勤話は無くなった。そしてその人事部長は逆に子会社に左遷された。その元人事部長と6年後くらいにアメリカの展示会で会った時、彼は「君がカリスマ的だったからだよ」とジョークか本気かわからないことを言った。金川氏が社長になる前の信越化学はそんな感じだった。それを変えるには強大な権力が必要だったのだろう。私はそんな組織は嫌いだった。私には信越化学という肩書は要らない、結局飛び出してしまった。
オーバーエクステンションは、耳障りは良いが大企業に属し、人脈を使わないとできないものだ。日本には合っているものの前近代的な考え方だと思う。