東芝セラミックス時代の夢を見た。大学院を卒業して東芝セラミックスの小国製造所の石英一課に配属になった。私は石英一課のグラスロック課というEMCフィラーと溶融石英焼結体を製造している技術係になった。技術係は私と高卒のHと二人だった。Hは私の二つくらい下の工業高校卒だった。私は入っていきなり技術係の責任者になった。入社して3か月くらいたった時、グラスロック課の課長が秦野の研究所に3か月行ってくれという。バック一つで夜行列車で行く、秦野の研究所には朝ついた。するとそこの上司が眠いのに延々と装置の説明や研究所の案内をした。昔の人は意地悪なのだ。その時、研究所ではSiCコーティングや透光性アルミナ、半導体などを研究していた。分析に行くとY課長がいて、「何しに来たの?」などとけげんな表情をされた。
私の研究所での仕事は、NEDOの助成金の最終レポートを書くためのデータ収集であった。翌日から昨日説明された装置の評価をやらされた。一度しか聞いていないがこっちにはノートがあり、、そのノートに書かれたとおりに操作してデータを取った。あっという間に3か月は過ぎ、私は小国製造所に戻った。
私が小国製造所に戻って、私は普段の仕事のほかに、新規の開発をやっていた。低α線フィラー材だ。世界的に誰もやっていなかった石英中のウラン、トリュームを放射化分析によって分析したのだ。放射化分析はお金がかかる。趣味でやることはできない。その時に、秦野の研究所のY課長がそれを負担してくれたのだ。Y課長は偏屈で知られていた。私の同期もY課長の部下にいたのだが、愚痴を言っていた。Y課長の支援で、私は低α線フィラー材の特許を出願したが、社内でそれを理解できる人はいなかった。唯一の理解者はY課長と技官だったK氏だけだった。
私が結婚した翌年、Y課長が小国製造所に新設された化学技術部の次長として転勤してきた。私もそこに移るように指示があったが、石英一課の課長が断って、私は石英一課で不透明石英全般の技術を見るようになっていた。Y次長は私のアパートの対面のアパートに単身赴任で住んでいた。よく二人で飲みに行った。なぜY次長が私を気に入ったかわからないが、小国製造所でも浮いていた存在だったからかもしれない。休みの日にはY次長のアパートでよく将棋をしたものだ。Y次長は行くと鍋などを作ってくれて一緒に食べた。
私が化学技術部の部長と喧嘩した時、私は会社を辞めることを決めた。この時は、九州の工場に原料の評価設備として酸水素溶融を入れたいという話で、私は酸水素溶融とアーク溶融は溶融速度が違うので無理だと言っただけだ。それに彼は「生意気だ」といったのだ。大体、直属の上司でもない人からそんなことを言われる筋合いはない。私は次々と新製品を作ってきたということでピノキオになっていたかもしれないが、大学の先輩だったこともあり、「俺の言うことを聞け」みたいな古臭いところもあったのだと思う。
私は辞めることをY次長に相談した。「まあ辞めてほかの会社でやってみるのもいい」と言われて信越化学に移った。その後1年くらいしてY次長が心臓の病気で入院して一週間くらいで亡くなった。その報はすぐ私のもとに来たのだが、葬式にはいかなかった。なぜだかわからないが。私はその一週間後、秦野の家を訪ねた。Y次長と一番親しかったから、葬式に行くのが嫌だった。私は変人のY次長と一番親しい変人として周知が認める男だった。
Y次長は本当に優秀だった。Y次長の死後、その部下がY次長の未発表の研究を発表して賞をもらったと聞いて腹が立った。その人は私も知っているが優秀ではない。私はY次長と3年くらい小国製造所で過ごし、技術を学んだ。でも畑違いなこともあって、私は私の道を歩いてきた。私の方がY次長より変人かもしれない。でもなぜY次長が私を選んだのか、いまだもっとわからない。