今日は寒い朝だった。私の生まれた小国町は初雪が降ったとのことだが、それほど多くなかったとのことだ。22日に私は墓参りに行ってきた。いい天気だったが、紅葉は過ぎていた。今回は、二人の孫娘の七五三の祝いを別々にした。そのほかの日にはプライベートなことをした。
伊集院静が亡くなったそうだ。「肝内胆管がん」の治療のため、当面の間、執筆活動を休止すると発表してから一か月の早い死だった。73歳だったが、自由にやりたいことをやったという意味では、よい人生だったのではないだろうか?
この間、私は極端なことを言ったかもしれない。65歳で仕事を止めたら、自分で余命を決めるような仕組みを作ったら幸せになれるのではないだろうか?まあ仕事をやめるのは各自の都合があるから、辞めた時にあと10年後には死ぬということがわかっていたら、人生の計画を立て、やりたいことをするということで充実した人生が遅れるのではないか。老後に不安があるのはいつ死ぬかわからないからだ。例えば、65歳で仕事を止めたら、自分で80歳で死ぬと決める。80歳で死ねるようにマイクロチップが体に埋め込まれる。死ぬときは苦しまずに死ねるようにする。余命15年の間に必要な金を計算し、貯金がゼロになるようにすればいい。家を売って、アパートにうつり、15年暮らす。相続などしないようにする。政府はその計画をできるだけ応援するようにする政策をとるようにすればいい。多くの人のヒンシュクを買うだろうが、この国を覆っている不安を少しは少なくできるだろう。
しかし日本はこういうことに対する議論を嫌がる風潮がある。重要なのに、である。自殺を罪悪視し、自分で自分の人生を決められない。唯一死を履行できるのは、医師や裁判官や軍隊に限られる。しかし、自分の命を決めれるのが自分でなく、医師や裁判官や軍隊でいいのだろうか?
まあいい、話が極端になってしまった。でも人は死を意識して始めて人生を真剣に考えるという傾向がある。それまでの人生では周囲の人の影響を強く受けて、自分の人生を真剣に考えなかったからだ。川に浮かんだ自分が川の水の流れに流されていく、でも人生とは自分の力で泳ぎ、必死に流れに逆らうことではないだろうか?
さて月曜日には韓国に行き、木曜日に中国に戻る。まだまだ私の人生は続く。やりたいことをやり続けたい。死の直前まで。