私の知り合いが亡くなった

4〜7分

 今朝、黄苗康が亡くなったと聞いた。黄苗康は私の会社の黄のことではない、寧夏と四川で石英るつぼを作っている黄苗康である。死因は高血圧による血管破裂だとか。脳溢血?大動脈破裂?

 今から20年前の2002年、私は倉元製作所で新たに石英るつぼ事業を立ち上げようとしていた。その時、中国で石英るつぼを製造し、それを日本で品質管理することで販売しようと考えた。その候補となったのが、中国余姚にある晶英石英である。上海沿岸地方はまだましだと考えたからだ。その頃、中国の石英るつぼは、東芝セラミックスが技術移転した錦州155のみだったが、錦州は日本人が住むには問題があった。さっそく私は中国に行くことにした。成田―上海―寧波便だったが、その頃の中国国内便は遅れるのが当たり前。夕方5時に寧波に着く予定が8時過ぎになった。その時迎えに来たのが、黄(今一緒にやっている)の父と黄苗康だった。黄の父は電気部品会社をしていた。そして黄苗康の提案で石英るつぼの会社を作ったが、うまくいっていなかった。日本からの技術導入は一隅のチャンスでもあったのである。冬だったがエアコンの電気は入っていなかった。北と違い、南の地域ではエアコンを使えなかった時代だ。契約をその年末までに終え、2003年には技術を導入する計画だったが、サーズの発生により2003年の3月になった。その年、黄浩がニュージーランドのMBAを取って帰ってきたので、二人でやるようになった。

2004年、石英るつぼが売れ始めると晶英石英の経営も軌道に乗った。そして2005年、私は中国杭州市にAQMという石英るつぼ会社を作るために中国に渡った。さて黄苗康の話をしよう。黄苗康は昔から酒好きで遊び好きだった。一緒に良く酒を飲んだものだ。会社の業績が良くなると黄の父との仲が悪くなった。晶英石英は寧夏と呼和浩特にるつぼ工場を作り、寧夏の工場を黄に譲った、これが晶隆である。これは黄の父にとっての厄介払いだった。亡くなった黄苗康は破天荒な性格のためか、一人息子はギャンブル好きで借金を積み上げていた。黄苗康は月に一回、余姚に帰り、息子の借金を返していた。やがて奥さんとも離婚、息子とも縁を切り、寧夏で新しい女性と再婚して別な人生を始めた。その頃は会合で会うと二人でよく飲んだものだ。彼は紆余曲折の人生を歩いてきた。酒も量が多くなっていたのだろう。確か私より、1,2歳年下だ。中国の平均寿命は77歳、早すぎる死だが、彼は77歳分生きたような気がする。

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