日本電産

8〜12分

「ひと言で言うなら、時代にそぐわない経営理念について行けなくなったからです」
そう話すA氏は、国内の大手製造業から日本電産に転職した当時から違和感を覚えたと証言する。
「トップへの過剰な忖度が蔓延している企業だと感じました」
彼の言う「トップ」とは日本電産の創業者にして会長の永守氏のこと。入社にあたって永守氏から「売上高10兆円企業を目指そう」と声をかけられた。人を惹きつけるカリスマ性を持った人物に映ったが、困惑したのは入社後に永守氏と食事をした時のこと。
「永守さんの著書に、時間がもったいないから食事では早飯をせよと書いてあったので手早く済ませたのです。永守さんから『おまえ、早いな』と声をかけられましたが、問題は食後。秘書室の社員から『なぜ早く食べたのか』と言われ、『会長が弁当箱の蓋を開けてから蓋を開け、会長が箸を置いてから箸を置くように』と指導された。ここまで細かく言われるのかと驚きました」(A氏)
「休みたい奴は辞めろ」
日本電産では全役員や統括部長らが出席する経営会議が月に2回開かれる。永守氏にそれぞれの事業本部が目標の達成状況を報告するが、業績の思わしくない事業本部の幹部は永守氏から厳しく叱責される。
「特にターゲットになっていたのが車載事業本部です。日産や三菱自動車から移ってきた人たちが多かったのですが、期待した通りの業績をあげられないと、『日産や三菱自動車のような3T企業の感性を早く捨てろ!』と怒鳴るのです」(同前)
3T企業とは、「低成長、低収益、低株価」の企業を指す。車載事業はガソリン車からEVへの世界的なシフトが進むなかで大きく成長が見込まれる分野であるが、中国メーカーとの競争が激しく業績は思うように伸びない。
テコ入れのために2020年にそれまで日産のナンバー3だった関潤氏を社長に招いて車載事業本部の責任者とした。だが、原料高や生産拠点である中国のロックダウンの影響などで低迷が続いた。
永守氏は経営会議の場ばかりか、幹部らへの一斉メールで関氏をはじめとする車載事業本部の幹部らを激しく詰めた。A氏の手もとに残るその一部にはこうある。
〈48年前に自宅で日本電産を創業して、死ぬ想いでここまで持ってきた日本電産を君達のような腐り切った人間に潰されてたまるか! 自動車業界からやってきた社長が、AMEC事業をもっともっと良くしてくれるだろうと期待してきたのに、全く逆にどんどん事業が悪化してきて、遂に名ばかり社長のもとで更に倒産への道を歩み出しているのをみて、怒り狂うどころか悲しくて涙が出て止まらない〉
日本電産ではこうした幹部が出席する会議は週末に開かれる。
「しかも土日は永守さんから幹部に一斉メールが次々と送られてくるので、これに即座に回答しなければなりません。精神的に全く休めませんが、永守さんは『代わりはいくらでもいる。休みたい奴は辞めろ』と公言しています」

社長だった関氏は週末も会議やメールのやり取りに追われる習慣をなくすよう永守氏に進言していたと報じられた。会議に出席する幹部だけでなく、その幹部をサポートするため中間管理職の社員も出社しなくてはならず、疲弊感が全社的に広がっていたからだ。
ところが、関氏の進言を日本電産が長年培ってきた企業文化を崩壊させるものと受け止めた永守氏は、これに激しく反発。車載事業本部の業績低迷もあって、関氏は昨年9月に社長退任へと追い込まれた。
「日本電産の企業文化を守ると言って、私たちのような外部のメーカーから移ってきた人材の提案を受け止めようともしないのです。これだけ外部人材を大量に採用しておきながら、です。関氏の退任騒動を受け、多くの社員は張り詰めた糸がプツリと切れてしまった。その結果が大量退職に繋がった点は否めません」

 そうですか。日本電産の場合、呉文精氏、片山幹夫氏、吉本浩之氏、関潤氏などを後継者として次々にスカウトしながら退任させたことがある。やはり創業者だから自分の意思を汲む人を社長に据えたかったのだろうが、考え方の違いを許容できなかったようだ。基本的に、創業者とサラリーマン社長とは全く別物である。もし後継者を探すなら、完全に自分は身を引くということをしなければならない。本田宗一郎はそうだった。松下幸之助も65歳で引退した。見事な引き際だった。社長は創業者とはいえ、次の後継者を育て、潔く退任するのが良い。上場企業において、会社は創業者のものではないのだから。

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