東芝セラミックス時代の夢を見た。
そこは大学院を出て初めて就職した会社だった。石英一課はその年、不透明石英課とグラスロック課に分かれた。私はグラスロック課の技術係に配属されたが、入った時から試験責任者になった。グラスロック課では石英焼結体とEMCフィラーを製造していた。技術者などいなかったので、私は入社してすぐから技術開発とクレーム処理などをやっていた。二年ほどして不透明石英もやってくれということになり、両方担当した。
この会社は結構緩かった。会社の端にはグランドがあり、グランドは外から自由に行き来できた。ちょうど寮がすぐ横にあり、正門を通らずともグランドから寮まで帰れたのである。東芝セラミックスはタイムカードなどなかった。でも残業などはスタッフにはなかった。
若いときは寝ているときにアイデアが湧くものだ。そうすると寮を抜け出してグランドを通って試験室に行く。会社は三交代だったから別に夜中に行っても何も言われない。それから試験を始めるのだ。
現場の休憩室に寄ると、まだ休憩時間でもないのにみんな寝ている。どうも日中の生産量を少なく記録して、夜中に生産しているように見せかけていたようだった。その分、夜中の休憩時間を長くして寝ていたのだ。まあ私には関係ないことなのだが、現場の人は幹部候補として私 を見ていたため、気まずそうな様子だった。
石英一課は150人くらいの所帯だった。技術係は7人だった。学卒と呼ばれる大卒は3人しかいなかった。年に60億円を売り上げ、経常利益は20%あった。私が開発した商品は年に約30億円の売上げがあった。入社して5年くらいたった時に、化学技術部なる組織ができた。各課から技術者を集め開発をやるというものだった。当然、私は化学技術部にくるように言われたが、石英一課の課長は出さなかった。化学技術部の部長は私の大学の先輩だった。その当時、山形大学の学閥があったのだ。私はそんなことには興味がなかったが、その学閥の一人とみんなは見ていたようだった。化学技術部は新しい建屋に入り、評価設備なども購入していたようだが、現場を持っている私には競争できなかった。私は全部自分で製品を作れたし、現場に指示を出して試作させることもできた。そう珍島は製造の金を使えば稟議書などいらなかった。当然、化学技術部の部長と言い争いになる。当然、私には技術ではかなわないから、私の態度が悪いという暴挙に出る。それがきっかけで転職することになる。
新製品開発や新規市場開発には人を虜にするものがある。人が作ったものを管理したり、売るなどということには私の脳からセロトニンが出ないのだ。常に新しいことに挑戦し、失敗し、最後には成し遂げる。その魅力にとりつかれた人は麻薬のように抜け出せなくなる。でもその時代は、そういう人が許されてきた緩い時代だった。時代は変わり、逆に日本企業は失敗を恐れるあまりに挑戦しなくなった。規則に縛られ身動きできなくなった。これでいいのだろうか。