昨日、韓国オニックにクアーズ長崎が買収されると書いたのだが、そのクアーズ長崎と私には深い関係があった。私は東芝セラミックスに入社し石英一課に配属されたのだが、石英一課には二つの別々な課があった。一つは不透明石英課、もう一つはグラスロック課というものだった。私はグラスロック担当ということだった。なぜグラスロック課といったかというと、そこで作っていた溶融石英焼結体は米国グラスロック社から技術導入したものだったからだ。グラスロック社はミサイルの先端ドームを生産していたが、東芝セラミックスでは鉄鋼用のノズルや一般ガラス用のハースブロックなどを生産していた。また新しい事業としてICパッケージ用の石英ガラス微粉を作っていた。私が入るまでは技術を担当する人がいなかったため、私はいきなり研究開発を任されることとなった。日中は通常の仕事をし、時間外は過去の論文などを読み漁った。そこで生まれたのが低アルファー線フィラー材であった。この技術は東芝セラミックス社内では全く評価されなかった。というのもその当時の東芝セラミックスは外国からの技術導入で生産するのが当たり前で、自社で世界で初めての技術など発明できるはずがないと思われていた時代だったからだ。
入社して2年目、顧客であった日東電工が佐賀に工場を作るということで、長崎にあった川棚工場にフィラーと石英原料の新会社を作ることになった。そこに製造課長として行かないかという打診があった。しかし私は翌年に結婚する予定になっていたので断った。川棚工場はグラスロックの移管作業などでよく行っていたのだが、言葉も違い、東北生まれの私にしてはちょっと違和感があった。石英一課に残るとグラスロック課はなくなり、私は不透明石英をやることになった。そしてすぐに電気分解法による石英ルツボT-230Uを開発した。この製品で私は世界的に名を知られるようになった。
もし私が長崎に行っていたら、今の人生はなかったかもしれない。当時、製造課長は花形だった。大きな権力を持っていた。しかし私は技術者でいることを選んだ。出世より重要なことは技術者としての名声だ。人のできないことをする。それ以上の快感などないのである。