動物の命

4〜5分

 土曜日の夜に、テレビを見ていたら捨て犬や猫を育てて、飼ってもらえる人を探してるみたいな番組があった。非常に違和感がわいてきた。犬や猫はペットとして大切にされるが、牛や豚は食べられる。ペットと家畜の違いは名前があるかないかだ。牛でも名前があれば食べられない。人はずるい、名前を付ければ食べられないからわざと名前を付けない。仏教ではどんな生物にも命があって、殺生をしてはいけないと説く。単純でわかりやすい。キリスト教は肉を食べたりすることは問題がない。それは牛や豚は知性を有していないからだという。都合の良い考え方だ。それと同じように、ペットには知性があり、よって名前を付けてかわいがると他の動物との差別化をしている。しかし、多くの動物や魚、植物さえも知性を有していることが最近分かっている。差別化をしているのは人間なのだ。

 そこにつけ込んでいるのはペットショップだ。極悪環境で繁殖させ販売している。売れなければ処分だ。奴隷時代のようなシステムだ。もっと不思議なのが、野良犬や野良猫を去勢しているボランティアだ。ほとんどの生き物は生まれたばかりで死ぬ。それを助けて去勢までするというのはどういうものか。そういう人たちは犬や猫が特別な存在であると決めてかかっている。これがネズミならばそこまでしないだろうし、魚屋で口をパクパクしている魚をかわいそうだからと家に持ち帰って水槽に入れたりしないだろう。

 これらの人たちを見ていると、人間がこの世界の頂点であり、頂点に君臨する人間がすべてを決めていると思って仕方がない。こういう驕りがやがては人間を破滅に導いていく。プーチンは核を持ってウクライナを脅している。核を持っているのは偉いのだといわんばかりだ。それを見て金正恩も核を持とうとしている。ウクライナがロシアのペットであって、しっぽを振って来れば許してやるものをと思っている。人間とは何て愚かな生物なのだろう。すべての生物はヒエラルキーな構造などないのに、それを作って、それが当然のようなこととふるまっている。

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