中国の太陽電池の幕開け

5〜7分

 中国の太陽電池は他国と同様に宇宙開発から始まっている。1971年には変換効率7%の太陽電池が科学衛星実践1号に搭載された。世界的には2002年の太陽電池市場の急拡大から2,3年遅れて中国でも民間企業が参入し拡大の兆しが見えてきた。私が中国に行ったのも2005年で、中国の太陽電池バブルの先駆けであった。2004年は50MWであった中国の太陽電池生産量は2005年には146MWになり、2006年には608MWととなった。2004年当初はそれほどシリコンウェハーが必要な状況ではなかったが、生産量が増えるにつれ、シリコンウェハーを作るメーカーが乱立していく。その当時の粗利益率が70%を越えたため、他業種が次々と太陽光発電に注目するようになったのである。石英ルツボメーカーもそれにつられて拡大していく。 中国の石英ルツボは1980年代に遡る。中国が石英ルツボのプラントを海外から購入したいという話があり、GE,ヘラウス、東芝セラミックスに打診があり、GE,ヘラウスはある程度自動化されていたため、簡単な機構の東芝セラミックスが選ばれた。石英ルツボとカーボンの純化設備が錦州155工場に導入された。その当時は12インチの石英ルツボだった。もうそんな歴史を知るものは少なくなった。その後、石英ルツボはガラパゴス化していった。私が余姚英晶と提携をむすんだ時、余姚英晶の装置は中国製だった。瀋陽の中国航空工业集团有限公司というメーカーだったと思う。瀋陽と錦州は近いのでそこでコピーしたものらしい。14インチを作っていた。その当時、記憶が確かではなかったが4社くらいの石英ルツボメーカーが中国にあった。余姚英晶には錦州155から来た技術員が4人いた。装置を改造し、ルツボを作り始めたが、なかなか売れなかった。余姚英晶は資金繰りに窮し石英ルツボ事業を止めたいと言ってきた。そこでユニミンの原料を倉元で購入して支払いを三か月後として余姚に輸出した。できたルツボを倉元が購入してお金を支払って、その金を倉元から購入した原料粉代金にあてた。そして私はそれをコマツ電子に販売した。このことは私が一人で全部決めた。相談したらやめろと言われるに決まっていたからだ。日本での販売が軌道に乗ると、中国でも売れ始めた。この当時のことを余姚の黄は忘れない。ある時余姚に行ったらお前にお金をやると黄は言う。儲けの分け前だといって5万元の札束を出した。私はいらないといった。わいろのような金をもらうわけにはいかない。かたくなに拒否した私の説得をあきらめて背広をくれた。

 杭州で私がAQMを立上げた時は黄に無理を言って助けてもらった。ただ非常に問題だったのは、技術も人もすぐ流出することだ。技術だ同じだとセールスを決めるのが賄賂ということになる。この話を次回にしよう。

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