杭州第二工場の一部屋を借りて準備室を作った。石英事業部から課長を一人、女性技術者を一人、鈴木さんという私より二歳年上のフェローテックの駐在員の4人であった。工場のレイアウトを作り装置の見積もりを行った。石英ルツボのメインの装置は溶融装置である。概略図面を作り、フェローテックグループの漢虹に話をもっていったが、作ったことのない装置はできないといわれた。そこで余姚英晶で二台作ってもらうことにした。日本から調達した装置はない。すべて中国製でやった。すべての装置に関する投資は2000万円くらいだったと記憶している。安い装置には必ず問題がある。
その年の12月に杭州先進石英材料有限公司が設立された。フェローテックが8000万円、杭州大和熱磁が8000万円、私が4000万円の資本金でスタート、私が社長、会長が賀さん、副社長には石英事業部から移籍した顧がなった。装置を発注し、現場要員を教育した。溶融は余姚英晶に二週間送り訓練した。おそらく余姚英晶の協力なしにはうまく進まなかっただろう。なにせ石英ルツボを知っているのは私一人だった。設計、技術、製造、品証、営業まで私が教え、私自身が実務をやった。それも言葉の通じない中国で。やはり短かったが倉元製作所で事業を立ち上げ、中国との関係を構築したことがためになった。2006年3月には初めての石英ルツボを作った。それは私自身が溶融したものだった。すべての作業は私がやって教えた。私は現場作業も全部できた。それは楠和クオルツ時代、技術部を独立採算にして試作品を販売していた。販売額が1000万円を超えるときもあったが、すべて私ともう一人で作った。金曜日の夜、製造が終わった後に出勤して日曜の夜までぶっ続けで作る。社員は月曜日は休みにしたが、私は午後から会社に出ていた。これが役に立った。私はISOにも力を入れた。日本風のISOはちゃんとしていた。ワッカーシルトロニックスの監査(楠和、倉元も監査を受けた)では、毎回よくなるといわれた。その当時、日本のルツボメーカーより良いといわれた。
その時、私は50歳だ。新しい経験が始まった。ずっと中国で仕事をするとは思わなかったが、中国の高度成長は私の子供の時と同じエキサイティングな感触があって面白かった。余談ではあるが、日本人のルーツについて最近Youtubeで見た。最初は、アジア全体に縄文人が生息していて、日本も住んでいたが、米を栽培していた寧波あたりの中国人が日本にわたり住み始めたという。それが弥生人だ。縄文人と弥生人は良好な関係であったという。時が過ぎて縄文人と弥生人は融合していく。今の中国は北からの征服などの戦争を経て遺伝子が混ざっているようだが、島国である日本は縄文人と弥生人の混血のままらしい。韓国人のルーツは違うらしいが、日本人と上海付近の人は同じような遺伝子だという。日本は中国ともっと仲良くしてもいいと私は思っている。