私の新入社員時代

7〜10分

 年寄りになると昔話が多くなるのはしょうがないことだ。

私は1978年に東芝セラミックス(現クアーズ)に入社した。所属は小国製造所石英一課だった。ただ石英一課は不透明石英とグラスロックに分かれていて、私はグラスロックの技術担当になった。グラスロックは二つの製品を作っていた。一つは米国グラスロック社から技術導入した石英焼結体とガラスを粉砕してなるフィラーだ。石英焼結体はガラスを粉砕してスリップ(泥漿)をつくり石膏型に流し込んで焼成したもので、鉄鋼用ノズルやガラス製造に使われるものを生産していた。フィラーはICパッケージ用エポキシに混ぜるもの、ロストワックスに用いるものを生産していた。私にとってはあまり興味の湧くものではなかった。大学院を出てはみたものの仕事はクレーム処理と試作品を作ることだった。組織ができたばかりなので、新入社員でも私は研究責任者となっていた。部下は工業高校卒の一人だった。有機合成を大学院でやってきた私にとって仕事は魅力がないものだった。普通ならば会社なんてそんなものかと思ってしまうのだが、私は時間があれば会社の図書館に入り浸って学会誌や社内の報告書を読んでいた。朝の6時から夜の11時まで会社にいることが多く、三食を会社で食べていた。そんな中ある科学雑誌の中でジェミニ宇宙船のコンピューターでソフトエラーが起こるという記事が衝撃だった。ソフトエラーは中性子やα線で起こる。その中でα線は遮蔽が簡単で問題がないと思われていた。その当時はこういう高品質のICはセラミックスパッケージが使われていたが、おそらくそこから放出されるα線が引き起こすだろうと考えて、将来樹脂パッケージとなれば直接素子と接触するために影響が大きいだろうとひらめいた。そうなのだ私がやっている石英ガラスフィラーからも出るので、さっそくU,Thを分析しようということに決めた。その当時、石英ガラス中のU,Thなど分析したこともなく、する方法もわからないという時代だった。もっとも難しかったのは、製造課でそんなわけのわからないことを言っても誰も理解できないことだ。そんな時、秦野研究所の分析室長が放射化分析の話を持ってきた。U,Thが分析できるという。分析費用は研究所もちでいいからということで、いろんなインドの原石から作った石英ガラスを分析した。インド原石はU,Thが低かった。それで試作品を作って封止材メーカーに出したのだが、いまいち反応は鈍かった。時代が早すぎたのだ。これを社内の研究発表会で発表したのだが、ほとんどの人が理解できなかった。その当時の東芝セラミックスは海外の企業から技術を導入して製品化していた。独自開発の製品などなかったのだ。私が入社して2年目の時だった。東芝が1MのDRAMに使用するという話で日の目を見た。開発してから2年が経っていた。その間私はほかの開発もやっていた。スリップキャスティングでなくCIP成形したり、石英焼結体に窒化ケイ素コーティングをしたり、思いついたことは何でもやった。毎年12報の特許を書いて出願した。入社して3年目、不透明石英も担当した。石英一課の技術係長はいたが、私は自分でテーマを決めて実行できる立場になっていた。低アルカリるつぼ、透明層るつぼなど世界的発明をして行けたのは、東芝セラミックスが非常に自由だったからだろう。しかし、そんな私は陰でさんざん言われていた。組織において自由にやっている社員など体にできたガンのような存在なのだろう。

 それでも私は私流の仕事をやり続けたのは、対外的な認知度があったからだ。私が出した特許は6年間で60件以上にのぼる。その頃の私は特許一件を書くのに3-4時間しかかからなかった。組織の中にうずもれたくない。それが転職のきっかけとなった。東芝セラミックスの渡部ではなく、技術者渡部なのだ。

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