超長寿社会 生きる価値

4〜6分

 テレビのニュースに老人が出てこない日はない。車で突っ込んだとか、家に火をつけたとか、悪いイメージが多い。今の高齢者は自分がこれほどまでに長生きするとは思ってもいなかったから、人生の設計図もない状態で生きている。したがって価値観も定まらない人が多いのではないだろうか?

 今日、「生産性」という物差しで、人間の価値を測るような世の中の風潮が強まっている。インターネットを開くと、障害者や高齢者を“社会のお荷物”とみなすような露骨な投稿や主張を目にすることも多い。「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」「なぜ税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなければならないのですか?」「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか? 優れた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」こうした素朴で露骨でデリカシーのない問いや主張は、今日の日本が抱える財政難や混迷を続ける経済状況を背景にますます増長し、力を強めているようにも思える。

 高齢化の進み具合より社会や価値観の対応が遅いことが問題だ。まあ若者にすれば生産性がない高齢者にお金をかけるより我々のほうにお金をかけろというかもしれない。そういう意味では高齢者と若い人とは分断されているのだろう。健常者と身障者との分断も同じことだ。ここで重要なことは高齢者がどこに価値を見出すかだ。最近行われたパラリンピックを見てみると健常者より優れていることが多々あると思う。高齢者も若者より優れているところを伸ばすべきだ。それを前期高齢者のうちから準備すべきである。高齢者には優位な点がある。それは社会貢献に対する意識が高いことだ。収入よりも社会貢献のほうが意欲が湧く。

 今は分断された社会で、それを共感によって解決しようとしているのだが、歴史的に言うと難しいと言わざるを得ない。人類は分断することで利益を得てきたからだ。最近では米中関係も分断によって利益を得ている人たちが多いということがある。分断社会で生きるためには、ゆるい関係を築くことだ。人間関係も社会に対する関係もゆるくていい。そして自分が自由になって思い切り冒険することだ。高齢者はそれができる。子供のような好奇心をもう一回呼び覚まし、いろんなことをやってみる。時間はたくさんある。そうやることで人生が生き生きとする。違うだろうか?

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