このブログに是非載せたい人。ケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダーについて書こう。
カーネル・サンダースことハーランド・デーヴィッド・サンダースは、6歳で父親を亡くし、貧しかった家庭を支えるため10歳から農場で働きます。 14歳になると学校を退学し、農場、市電の車掌を皮切りに、働きに働きます。1年ほどの軍役を経験し、40以上の職を転々としました。ちなみに、カーネルとは陸軍大佐を意味しますが、彼は大佐には昇級せず、兵卒で除隊しています。40に余る職業は、鉄道のボイラー係、保険の外交員、商工会議所の事務員、タイヤの営業など、じつに多岐にわたっています。 職種も、職工、営業、事務、雑用など、何でもござれ。終身雇用とは無縁、転職は当たり前の米国にあっても、40以上は珍しいでしょう。 また、米国で転職が珍しくないのは、転職によってキャリアアップ、はっきり言えばサラリーアップが狙えるからです。そのためには、同じ業界、同じ職種から、顧客や取引先を持って次の会社に移りますから、同じ業界で転職するのが当たり前です。 対してサンダースは、業種も多彩です。家族を養うためだけなら、安定した仕事を続けるものでしょう。彼の転職には、生活のためだけではない、求道的なものを感じます。
サンダースは、自分に問いかけていたのではないでしょうか。これが自分の仕事なのか、一生を費やしておこなうべき仕事なのか、と。決して、飽きっぽいとか、職場に馴染めないトラブルメーカーであったわけではなかったと思います。 40もの転職を繰り返した後、ついに全身全霊で打ち込める仕事が巡ってきます。タイヤのセールスをしていたときに知り合った石油会社の支配人から、ガソリンスタンドの経営を勧められたのです。もし、彼が給料目当てのいい加減な仕事ぶりであったなら、そんな声はかからなかったでしょう。サンダースは、ガソリンスタンドの経営者として独立します。 サンダースの店は、ガソリン給油のほか、サービスとして窓ガラスの清掃や、ラジエイターの水やタイヤの空気圧の点検を実施し、ケンタッキー州で評判となりました。40以上の転職によって培われた客のニーズ把握とサービス精神が結実したのです。 しかし、せっかくの成功も1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する世界恐慌の波に流されます。当初、彼は地元農家のためにガソリンを後払いで売っていました。 ところが、悪いことは重なるもので、恐慌に加えて大旱魃が襲いかかったのです。これにより、農家の倒産が相次いで、サンダースのガソリンスタンドも潰れてしまいました。 それでも、お客本意の彼の経営は高い評価を受け、シェル石油からガソリンスタンド経営を持ちかけられます。サンダースは喜び勇んで、新たなガソリンスタンドの経営をおこないます。 彼は、以前にも増した工夫を凝らしました。過去の成功体験に満足しないのが、彼の信条なのかもしれません。ガソリンスタンドの敷地内にカフェレストランを建てたのです。
料理はサンダースがつくりましたが、これが好評となり、道路を挟んだ土地を譲られると、そこにカフェレストランを移します。ガソリンスタンド、カフェレストランともに大評判となると、サンダースは州への貢献が認められ、ケンタッキー州知事から「ケンタッキー・カーネル」の称号を贈られました。時にサンダース、45歳でした。 さらに2年後には、ガソリンスタンドの裏手にモーテルを開業します。40以上の転職の苦労が実り、実業家として成功を収めたと、これだけでも立派なサクセスストーリーです。 しかし、カーネル・サンダースの人生はこれからも激動します。 というか、これからがカーネル・サンダースの逆転人生がスタートするのです。 彼は、より客が求めているものは何かを貪欲に追求します。目をつけたのはフライドチキンでした。何度も試行錯誤を繰り返して、絶妙のスパイスとハーブの調合に辿り着き、最新式の圧力鍋で今日私たちが味わうケンタッキー・フライドチキンを完成させます。 しかし、喜んだのも束の間、なんと火事で店は全焼、また成功の果実を失いました。 普通なら、茫然自失となった後に己が不運を嘆き、神仏をなじることでしょう。で、時が経てば、命が助かったのをせめてもの幸いだと自分を慰め、食っていかなければと、職を求めて求人広告を探します。対して、不屈の男サンダースは違います。自身のフライドチキンを食べさせたいという要望に励まされ、再建に動き出したのです。 幸い、サンダースには、ノースカロライナ州に所有していたモーテルがありました。それを売ると、銀行から金を借りて、今度はレストランだけに絞り、営業を再開しました。 カーネル・サンダース51歳、再々起のスタートです。
と、スタートしたのはいいのですが、サンダースの人生は波乱がつきものです。不屈の闘志を失わない彼でしたが、思いもかけない大切な人を失ってしまいます。57歳のとき、長年連れ添ってきた妻が離婚を切り出したのです。 サンダースは戸惑いながらも、子どもたちが成長したこともあって、離婚に応じます。妻にはきちんと慰謝料を払い、暮らしに困らないよう配慮しました。 店を失っても挫けなかった彼でしたが、妻に去られた寂しさには耐えられなかったのか、2年後にレストランの従業員と再婚しました。彼女は従業員だっただけに、サンダースの仕事に理解が深く、夫唱婦随でレストランの経営をおこないます。59歳で新妻を得たサンダースは、レストラン経営に邁進します。 そんなサンダースに、もはやお定まりとなった困難が訪れます。レストランのある国道に迂回路が設けられることになったのです。 このため、店の前を通る車は激減します。客は減り、店の経営は悪化の一途を辿りました。営業すればするほど、赤字が膨らむとあっては、店を畳むしかありません。このとき、サンダースは65歳、余生は年金生活でもいいかと弱気になった彼は、店を売却します。 ところが、その売却費は、目論んでいた金額の半分にもなりませんでした。税金、借金を返済した後は、ほとんど残らなかったのです。おまけに、支給される年金は、とても生活できるような金額ではありませんでした。 追いつめられたサンダースですが、不屈の闘志に火がつきます。
と言っても、今回ばかりは現実の壁が立ち塞がりました。資産もない65歳の老人に、金を貸してくれる銀行などありません。しかし、サンダースは、己を奮い立たせます。 「金はなくとも、試行錯誤の末に完成させたフライドチキンのレシピがある!」 彼は、このレシピを金にしようと思い立ちました。オリジナルスパイスを提供し、調理法を伝授して契約料を受け取る、というビジネスです。 サンダースは高圧釜とスパイスを車に積み、米国中のレストランを回りました。車の中で寝泊まりし、試作品のフライドチキンが1日の食事でした。アポイントもなく飛び込みで訪れるため、門前払いは当たり前でした。 それでもサンダースは、粘り強くフライドチキンを売り込みます。レストランの裏口で従業員たちに試作品を食べてもらい、その店の調理場を借りると、フライドチキンを無償で客に提供しました。こうした地道な営業活動により、サンダースのフライドチキンは評判を呼び、契約を求めるレストランが増えていきました。 こうしてサンダースは、ケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ化に成功、74歳になってフランチャイズ権を売却した時には、600もの店舗を数えました。彼は90歳で亡くなるまで、ケンタッキー・フライドチキンの顔として世界中の人々に親しまれています。
カーネル・サンダーの言葉。
65歳になった人ならだれでも、積み上げてきた経験があります。山もあり谷もあり、人生には試練もあれば辛酸をなめることも一度や二度でもあるでしょう。その経験が生かせないことはないでしょう。65歳までに積み上げてきたことを結集させれば、きっと新しいスタートが切れますよ。
あなたは本当に年老いていくのではありません。自分が年老いたと感じた分だけ、思い込んだ分だけ歳を取るのです。あなた自身が年を取ったと思わない限り、いくつになってもあなたにできる仕事があります。