日本電機産業はいかにして凋落したか

15〜23分

『神さまとぼく 山下俊彦伝』を上梓した経済ジャーナリストの梅沢正邦氏が、いま、改めて注目される山下俊彦のメッセージを伝える。

 エレクトロニクス産業は大きなシャボン玉だった。1980年代は家電が先導した。カラーテレビはもちろん、最大のヒット商品となったビデオやさまざまな音響機器に至るまで、日本製品が世界を席巻していた。半導体メモリーも世界トップだった。誰もが「電子立国ニッポン」を疑わなかった。

 日本エレクトロニクス産業の生産額がピークをつけたのは2000年、26兆円だった。それが2018年、11.6兆円に転げ落ちている。生産額の半分以上が「消え」てしまった。

 品目別に見てみると、凋落はさらに悲惨なものとなる。ピーク時には1兆円を突破した薄型テレビは2018年、たった494億円になってしまった。2002年に1.4兆円の生産額だった携帯電話は17分の1、822億円に縮んでいる。

 ちなみに、お隣、韓国のサムスン電子は23兆円の売り上げを上げている。日本エレクトロニクス産業全体の生産額が今や、サムスン1社のようやく半分でしかない。こんなはずではなかった。

 振り返れば、生産額がピークをつけた2000年の、そのまた10年前が転換点だった。日本エレクトロニクス産業は1990年、1991年まで一本調子の上昇カーブを描き、生産額は24兆円、25兆円となる。翌年、反落し、そこから上下に振れるジグザグ運動に移行した。

 1990年とはどういう年だったか。日本はバブルの極みの頂点にいた。日本の製造業は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と絶賛されていた。株価も地価も暴騰した。日本中が舞い上がり、おごりが全土を覆い尽くした。

 エレクトロニクス産業も例外ではない。変わらなければならないそのときに、自足し、内向きになり、「変わろう」とする意思を失った。そこから凋落と敗北が準備された。絶頂期が「危機の時」だった。

 あたかも、その「危機の時」の到来を予感していたように、激しく、勇敢に変わろうとしたリーダーがいた。山下俊彦である。

 1977年から1986年まで、日本最大の家電メーカー、松下電器産業(現・パナソニック)の社長を務めた。山下は言った。「ほろびゆくものの最大の原因はおごりです」。松下電器は強大な「家電王国」だった。

 山下は、大きく舵を切った。もう1つのシャボン玉、産業エレクトロニクスを最大速力で育て上げる。情報機器を強化し、OA(オフィスオートメーション)、FA(ファクトリーオートメーション)へ展開し、エレクトロニクスの中核、半導体を圧倒的に拡大する。

 「家電王国」から総合エレクトロニクス企業へ。山下は「大転換」を全社的な「運動」にした。名付けて「ACTIONー61(A61)」。1986(昭和61)年までの3年半で成果を出す。明確に期限を切った。

 家電がしっかり稼いでいる。なぜ、「転換」のリスクを冒すのか。社内は不安と疑問でいっぱいだった。「企業は生きている。活力のある企業は栄え、活力を失った企業は衰える。一度守りの姿勢になった企業は衰退の一途をたどるのみ」。そう山下は言い切った。

 「A61」は「グローバル化戦略」でもあった。海外生産を拡大し、先端技術をどんどん海外に移転する。そうすることによって本国=日本をつねに次世代技術を創り出す、いや、創り出さねばならない立場に追い込んでいく。「一度守りの姿勢になった企業は衰退の一途をたどるのみ」なのだから。

 山下は「危機の時」の4年前に退任する。が、松下電器の存在感は圧倒的だった。産業全体の方向ベクトルを設定する力を持っていた。もし、山下の「変わる」勇気が松下電器でしっかり継承され、産業全域に広がっていたならば、色とりどりの新しいシャボン玉が大きく膨らんだに違いない。エレクトロニクス産業は今とは違う姿になっていただろう。しかしそうはならなかった。

 その後の日本エレクトロニクス産業の「敗北」は、山下の「変わる」勇気がいかに希有な経営資源か指し示しているようである。

 奇跡のような経営者だった。社長になるはずのない男だった。取締役会の序列は26人中、下から2番目。そこからいきなり社長になった。松下電器の初代社長は創業者の松下幸之助、2代目社長は幸之助の女婿の松下正治だ。3代目社長の山下は、松下家とは縁もゆかりもない。戦前の工業学校を卒業した山下は学歴もない。

 決定的に「なかった」のが権力欲求だ。自らを顕示したい。出世街道を駆け上がり、権力を握りたい。握った権力は放したくない。ビジネスパーソンの誰もが抱く欲求のかけらもなかった。

風のようにさらさらしていた。社長を9年務めると、自ら相談役に就くことを選び、すっと権力から離れた。社長交代の記者会見もさらさらしていた。

 山下が退任したとき、松下電器の売り上げは3兆4241億円、営業利益1467億円。在任中、それぞれ2.6倍に押し上げた。辞めた瞬間、そのすべてを忘れ去ろうとしていた。

 社長を退いた後、山下が著した自叙伝のタイトルは「ぼくでも社長が務まった」である。こんなタイトルを平気でつけた。こんな社長、いなかった。

 社長時代の山下は、よく現場に足を運んだ。日が当たらなくても、一生懸命やっているか。人が仕事に取り組む姿勢を何よりも大切にしていた。

 山下が言う「一生懸命」は、上から命じられるままを遂行することではない。「人が人を使うということでは通らない」が、山下の信条だった。一人ひとりが自ら主体性をもって考え、計画し、実行する。一人ひとりが主人公でなければならない。山下は本気でそう考えていた。

 だから、社長として最初の経営方針の中で宣言した。「理想的な企業はいかにあるべきか。従業員一人ひとりの目標の延長線上に会社の目標もある、という姿がいちばん望ましいわけです」。会社ではなく、まず個人一人ひとりがいる。一人ひとりのダイバーシティー(多様性)の上に会社を構築することこそ望ましい。

 山下にとっては、BS(貸借対照表)もPL(損益計算書)も、会社の真正の価値を表すものではなかった。社長になる前のエアコン事業部長時代から、山下は日々の思いを大学ノートにつづっていた。こう書いている。「(BSやPLは)いずれも過去の業績の表示であって、会社の未来価値を示すものではない」「未来は永久に未知の世界である。会社の将来性に対してアテになるのは資本金や資産価値ではない。人間だけだ」。

 見つめていたのは、徹頭徹尾、人だった。一人ひとりの人だった。個人は会社のためにあるのではない。会社が個人のためにある。一人ひとりの視点を貫くことが、畢竟(ひっきょう)、会社そのものを最も強くする。その「パラドックス」を山下は知っていた。

 いま、山下が輝くのは、はっきり言ってしまえば、日本の経営者たちがアングロサクソン流の思考様式にからめ取られ、衰弱しきっているからだ。1990年代以降、日本の企業社会では非正規雇用が急速に拡大し、現在、その割合は4割近くに達した。日本国中で人はただのコストになった。

 結果、格差と不平等、労働環境の悪化がもたらされ、近年は政府が正規雇用の拡大や賃上げ、「働き方改革」を企業に要請する事態となっている。泉下の山下は呆然としているだろう。政府に言われてやることではない、職場の一人ひとりの幸福を考えるのは、経営者の唯一無二の仕事だろうに、と。

 今から40年前、しかも、「神さま」の教義一色に染め上げられていた会社で、山下俊彦は奇跡のように、はるか未来を先取る経営を確立しようとしていた。

 幸之助の経営は「日本的経営」の典型とされた。山下は「日本的経営じゃないんだよ。いい経営と悪い経営があるだけ」と言った。山下が目指したのは、世界と未来に通じる、新しい普遍的な経営だった。

 こんなはずではなかった――。もしも「山下俊彦」が継承され、発展させられていたなら、山下が訴え続けた改革が実現していたら、いまとは違う「もう1つの日本」が生まれていたかもしれない。

 常に新しい価値を作り出していく。それしか競争に勝つ手段はない。いくら二番手が追いかけてきても一番手が前に進んでいる限り抜くことはできない。これを達成するのは人だ。独創的な技術者と製造現場の人と人を見抜く経営者だ。今の日本企業は経営者だけが走っている。それはいいかもしれないが、判断基準が欧米化している。あたかも株主のために仕事をしているかのようだ。

 私がいつも思うことは、「選択肢を自ら狭くしている」ことだ。誰でもわかるできることしかやらない。自ら競争の激しい世界を選ぶ。リスクに対し責任を取るのが嫌だからだ。しかし最も苦難の道の先に栄光があるのだ。克服できない問題はない。もう一度昔の日本に戻るべきだ。それ以外に日本の復活はない。

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