日本人の幸福度はなぜ低いか?

4〜7分

日本人の客観的幸福度は低くないが、主観的幸福度は低い。なぜだろうか?私は日本社会というがんじがらめの構造に起因していると思う。日本人として生まれてきて日本語を話し、小学校ー中学校ー高校ー大学、そして就職。人生が85年だとすれば、たった22年で自分の人生が決まってしまうなんて。ほとんどの人は人生をやり直すことなど考えたこともないのではないか?私が欧米の人を見て思うことは、やり直しができる寛容さを持っているということだ。大学を休学し、世界を放浪してまた戻ったり、就職してまた大学に戻ったり。結婚して、離婚してまた結婚したり。

日本社会にはその寛容さがない。不倫してはじき出された人。ちょっとした罪を犯してすべてを失った人。中国から帰ったというだけでウィルス感染者と噂する人。女の尻を触っただけで懲戒免職になった公務員。間違いは誰にもあるのだが、それが許されない社会。だから危険を冒さず生きる。そういうのが嫌な人に対し、じゃ出てけばいいという人たち。完全な村社会だ。

私も大学に入るまではごく普通の学生だった。工学部だったが、たくさんの本を読んだ。その中で今でも尊敬している本は「クヌルブ」と「懐疑論」だ。ヘッセの崇高な哲学。失恋を機に放浪の旅にでる。自由に上品に生きるクヌルブだが、死の間際、自分の人生に意味があったかを神に問う。神はクヌルブの人生を祝福し、天国に導く。 ラッセルの「懐疑論」は信念におぼれず、先入概念に縛られず、言葉に騙されず真実を突き詰めることの重要性を説く。犠牲を伴わないで得られた概念は自由であるべきで、詰め込まれた知識ではなく、知性を磨くべきだとした。

私は日本社会においては変人と言われる部類の人である。社会通念に沿って生きていないからかもしれない。でも私は自由に生きてきた。後悔したことはない。ある人が私に「いいなお前は自由で」、「じゃ自由になってみれば」というと「いややめておくよ」。多くの人は危険を冒したくないために、自由を捨てる。

人生における幸福、人それぞれ違うものだ。こうでなければならないなんてものはない。しかしそれは客観的なもので自分自身のことは違う。自分にあった生き方をしなければならない。私の場合は、常に自分にこだわらず自分の殻を破っていくことにある。いつでも自分を捨てて新たな再出発ができなければいけない。作物なら、種をまき芽をそだて穂がなるまでが面白い。収穫にはあまり興味がない。毎年、違う種を蒔く。そんな人生でありたいと思う。

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